華やかなスポットライトの影で、誰よりも長く、静かにその時を待っていた一人の表現者がいます。

今、画面越しに響く彼の聡明な言葉や揺るぎない存在感。

その根底に流れているのは、11年という気の遠くなるような歳月と、何度も目の前を通り過ぎていった「選ばれなかった記憶」です。

なぜ、確かな才能を持ちながらも、彼は3度もの大きな転機を見送らねばならなかったのか。

そこには、単なる下積みという言葉では片付けられない、静かなる覚悟と情熱の物語が隠されています。

長い冬を越え、彼が最後に守り抜こうとした「真実」とは。その足跡を辿ることで、今の彼が放つ輝きの本当の理由が見えてくるはずです。



中間淳太のJr.時代は11年!意外な入所秘話も

「アイドル」という華やかな響きの裏側に、これほどまでに長く、険しい道のりがあったことをご存じでしょうか。

今やWEST.の頭脳派として、バラエティや情報番組で欠かせない存在となった中間淳太さん。

彼が手にした「デビュー」という切符は、なんと入所から11年という歳月を経てようやく掴み取った、執念の結晶なんです。

今の若手デビュー組が数年で世に出るケースも珍しくない中、11年という数字はあまりに重いもの。

一体、15歳の少年がどんな思いでその時間を過ごしてきたのか……。

まずは、彼の「アイドル・中間淳太」としての原点から紐解いていきましょう。

始まりは「台湾」と「KinKi Kids」

中間さんのキャリアは、少し特殊な環境からスタートします。

お父様が台湾人で、ご自身もハーフという国際的なバックグラウンドを持つ彼は、幼少期を台湾で過ごしていました。

そんなある日、運命を変える出来事が起こります。

台湾で開催されたKinKi Kidsのコンサートです

そこで、なんと母親がオーディションの案内を見つけてきたというから驚きですよね。

「あんた、ちょっと受けてみたら?」なんて会話があったのでしょうか。

持ち前のルックスと才能で見事合格を勝ち取り、2003年、彼は関西ジャニーズJr.の一員として歩み始めます。

「現役大学生アイドル」という先駆者の苦悩

当時の関西Jr.といえば、まさに群雄割拠。

中間さんは、後の相棒となる桐山照史さんと共に「B.A.D.」というユニットで活動し、中心的な存在になっていきます。

しかし、ここで彼には大きなこだわりがありました。

それが「大学進学」です。

今でこそ高学歴アイドルは当たり前ですが、当時はまだ珍しい時代。

関西学院大学に通いながらアイドル活動を両立させる生活は、想像を絶する多忙さだったはずです。

勉強なんてしてないで、もっと仕事に集中しろ」……。

そんな心ない声が聞こえてきそうな環境で、彼は学業を疎かにしませんでした。

でも、その「真面目さ」や「素直さ」が、時に芸能界という特殊な世界では仇(あだ)となってしまうこともあったんです。

「干された時期」もあった? 突きつけられた現実

中間さん本人が後に語っていますが、実はJr.時代に「干されていた時期」があったといいます。

理由は、若さゆえの正義感。

納得がいかないことに対して、大人たちに真っ向から意見をぶつけてしまったからだとか。

「自分は間違っていない」と思っても、仕事がパタリとなくなる恐怖。

同期や後輩が、自分を追い越して東京の大きなステージに立っていく姿を、彼はどんな目で見つめていたのでしょうか。

「自分には才能がないのか?」

「もう辞めるべきか……」

そんな葛藤が、11年という長い時間の中に何度も去来したはずです。

特に20代半ばに差し掛かる頃の焦りは、一般社会でいえば「就職か、夢か」という崖っぷちの決断。

それでも彼がマイクを置かなかったのは、ファンへの想い、そして何より「仲間」という希望があったからに他なりません。

この11年という長い「前提」があったからこそ、あの「3回デビューを逃した」という伝説のエピソードが、より一層深い意味を持って語り継がれることになるのです。



デビューを3回逃した理由は?不遇なJr.時代を象徴する真実

ファンの間で、中間淳太さんの苦労を語る際に必ずと言っていいほど登場するのが「3回デビューを逃した」という切ないエピソード。

公式に本人が

「3回失敗しました」

と断言しているわけではありませんが、当時の状況を振り返ると、いかに絶妙(かつ残酷)なタイミングで、デビューの波に乗り切れなかったかが浮かび上がってきます。

一体、どのグループ、どのタイミングで彼の名前が挙がっていたのでしょうか。

そこには、ジャニーズの歴史とリンクする3つの「もしも」が存在します。

1. 関ジャニ∞:地元の先輩たちの背中

まず語られるのが、同じ関西ジャニーズJr.として活動していた、関ジャニ∞のデビュー前後です。

中間さんが入所した2003年は、まさに関ジャニ∞が結成・デビューへと向かう激動の時期。

「関西から新しいグループが出る」という空気の中、当時から注目株だった中間さんにも、何らかの形で関わるチャンスがあったのではないか……。

そう推測する声は少なくありません。

しかし、結果として関ジャニ∞は独自のカラーを固め、中間さんはJr.としての活動を継続することに。

地元の大きな背中を見送りながら、「自分たちの番はいつだろう」と自問自答する日々がここから始まったのです。

2. NEWS:選考と補充のタイミング

次に囁かれているのが、NEWSに関連するタイミングです。

グループ結成時や、その後のメンバー構成が変化する局面で、高いポテンシャルと知性、そして端正なルックスを併せ持つ中間さんの名前が候補に挙がったという説。

「もしあの時、NEWSに入っていたら?」……そんなファンの想像は止まりません。

特にNEWSは、東西の垣根を超えたメンバー選抜が行われることもあったため、関西のホープだった彼に白羽の矢が立っても不思議ではなかったはず。

しかし、運命の歯車は別の場所へと回っていきました。

3. Hey! Say! JUMP:世代交代の荒波

そして3つ目が、Hey! Say! JUMPの結成です。

この時期、中間さんと同世代、あるいは後輩たちが次々とデビューを決めていきました。

まさに「JUMP結成」というジャニーズ界の巨大なビッグウェーブ。

自分もあの波に乗れるかもしれない

という期待と、

また自分ではなかった

という絶望。

ステージで共に汗を流した仲間たちが、次々と「デビュー組」としてテレビの向こう側へ行ってしまう。

その疎外感は、想像を絶するものだったでしょう。

10代から20代へと移り変わる多感な時期に、3度も大きなチャンスが目の前を通り過ぎていった……。

この事実は、彼にとってどれほどの試練だったのでしょうか。

「3回」という数字に込められたファンの愛

これらのエピソードがなぜこれほど語られるのか。

それは、単なる「失敗談」ではないからです。

ファンは、彼が何度もチャンスを逃しながらも、腐らずに、逃げずに、関西の地で11年も踏ん張り続けたことを知っています。

「3回逃した」という言葉は、彼がそれだけ「常にデビュー圏内にいた実力者だった」という証であり、そこから這い上がってきた彼へのリスペクトそのものなんです。

「またダメだったのか」という痛みを、一人で、あるいは仲間と分け合いながら飲み込んできた11年。

しかし、そんな彼に本当の意味での「最大にして最後の試練」が訪れます。

それが、デビュー直前に突きつけられた「4人か、7人か」という究極の選択でした。



7人デビューの真実!絆で掴んだ執念の直談判

11年という果てしない下積みを経て、ようやく掴みかけた「デビュー」の二文字。

しかし、その直前に中間淳太さんを待ち受けていたのは、あまりにも残酷な「選別」でした。

このエピソードこそ、今のWEST.(旧ジャニーズWEST)がなぜこれほどまでに熱く、強い絆で結ばれているのかを物語る最大のハイライトです。

4人だけでデビューしろ」という非情な通告

2013年のカウントダウンライブ。そこで発表されるはずだったデビューの形は、今の7人ではありませんでした。

事務所から言い渡されたのは、中間さん、桐山照史さん、重岡大毅さん、小瀧望さんの「4人」でのデビュー

長年苦楽を共にしてきた濱田崇裕さん、神山智洋さん、藤井流星さんの3人が外される……。

普通なら「自分だけでもデビューできるなら」と安堵してもおかしくない局面です。

何しろ彼は11年も待ったのですから。でも、中間さんは違いました。

7人じゃないと意味がない。このメンバーを後ろに置くくらいなら、僕はデビューしたくない

その決意は、まさに崖っぷちの覚悟。

デビュー自体が白紙になるリスクを背負いながら、彼は仲間を守るために立ち上がったのです。

ジャニーさんへの命がけの「直談判」

ここからが伝説の始まりです。

中間さんや重岡さんたちは、ジャニー喜多川氏のもとへ「7人でデビューさせてほしい」と直談判に向かいました。

4人の方が売れる

人数が多いと個性が死ぬ

……そんな大人たちの論理を、彼らは熱意だけで突破しようとしたのです。

「もし失敗したら、もう次はない」という極限状態での交渉。

想像してみてください。自分の人生を懸けた大勝負を前に、震える足で扉を叩いた彼らの姿を。

結果、その熱意がジャニーさんの心を動かしました。

そんなに言うならやってみなよ」——。

2014年4月23日、シングル『ええじゃないか』で、ついに7人揃ってのデビューを勝ち取ったのです。

あの明るい曲調の裏には、実はそんな泥臭くも熱い「男の約束」があったんですね。

個人の仕事もすべてはグループのために

デビュー後の中間さんは、得意の中国語や英語、そして大学で培った知性を武器に、コメンテーターやクイズ番組で唯一無二のポジションを築きました。

でも、彼の根底にある想いは今も昔も変わりません。

「個人の仕事は、すべてグループの名前を広めるためにある」。

11年という長い冬の時代を経験し、3度のチャンスを逃し(と言われ)、最後に仲間と心中する覚悟でデビューを掴み取った中間さん。

彼の言葉に重みがあるのは、その輝きの裏に数えきれないほどの「悔し涙」が染み込んでいるからではないでしょうか。

苦労したからこそ、今の景色を誰よりも大切にしている。

そんな彼の生き様を知ると、バラエティで見せるあの優しい笑顔が、より一層愛おしく感じられますよね。

これからもWEST.の最年長として、そして頼れる頭脳として、彼がどんな未来を描いていくのか。ファンならずとも、目が離せそうにありません!




まとめ

一筋縄ではいかない11年という歳月。

それは単なる「待機期間」ではなく、彼が彼であるための輪郭を形作る大切なプロセスだったのかもしれません。

いくつもの荒波を越え、時に大きなチャンスを見送りながらも、

彼が最後に選んだのは「自分一人だけの栄光」ではなく「仲間と共に歩む未来」でした。

その決断があったからこそ、今の眩しい景色があるのでしょう。

長く険しい道を知るからこそ放たれる、あの優しくも力強い輝き。

その裏側に秘められた真実を知れば、テレビ越しに見せる彼の知的な横顔が、昨日までとは少し違って見えるはずです。

道のりの重みを知る一人の表現者が、これからどんな物語を刻んでいくのか。

その軌跡を、静かに、そして熱く見守りたくなります。

 

ABOUT ME
to-chan
元介護施設職員、現ブロガー、雨を愛する人 自動車好き、読書、光輝くもの好き 座右の銘:朱に交われば赤くなる 好きな四字熟語:一期一会